美谷島邦子

Author:美谷島邦子
やわらかな蕾のまま
9歳の君は心の中にいます
いつも一緒に・・・。
お母さんの思いを
小さな日記につづります
感謝をこめて

お母さんは、
御巣鷹山の事故を
決して忘れてはいけないことを
若い人たちに伝えていきます

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曼殊沙華

2017.09.16(14:10) 331

まんじゅ

庭の曼殊沙華が今日咲きました。今年は白が久しぶりに咲きました。この花が私は大好きです。

白い曼殊沙華

幼いころはこの赤い花が不気味だった
炎のように見えた華を
遠くから恐る恐る眺めていた

彼岸がちかくなると
約束をしなくても庭に
突然に姿をみせてくれる
この花が好きになった

魂の炎のような曼殊沙華の中で
そばに置いた小さなお地蔵様は
そっと微笑む

今朝に咲いた 白色の曼殊沙華に
亡き子の姿を重ねて




御巣鷹山と生きるーポエム85812



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健ちゃんと靴

2017.09.02(17:42) 329

日航機墜落“32年”命の重さ伝える運動靴
2017年8月14日 12:16
  日テレニュース24

下記をコピーしてご覧ください
http://www.news24.jp/articles/2017/08/14/07369785.html

群馬県上野村の御巣鷹の尾根に日本航空のジャンボ機が墜落し、520人が亡くなった事故から12日で32年になった。事故で当時9歳の息子・健くんを亡くした美谷島邦子さん(70)は今年、これまで人に見せることはなかった健くんの遺品を通じ、命の大切さを伝えている。

 先月、御巣鷹の尾根の山道を登った美谷島さん。

 美谷島さん「(事故で亡くなった)520人の人たち、そして我が家にとっては、健ちゃんにとっての33回忌。こんなにたくさんの人に来ていただいて、お参りをしていただいて、520人の人たちもすごく喜んでいると思います」

 無数の墓標が立ち並ぶ事故現場。「失われた命を感じてほしい」と、美谷島さんは11人の小・中学生を連れて訪れた。

 1985年8月12日。羽田空港から大阪へ向けて出発した日本航空123便。午後6時56分墜落、乗客・乗員520人が犠牲となった。その乗客の中に、1人で大阪に向かっていた美谷島さんの二男・健くんが含まれていた。

 事故から3日後、まだ煙が立ち上る墜落現場に美谷島さんの姿があった。

 美谷島さん「(健くんが)山から下りてくるんじゃないかって、ずっと半分くらい思ってたからね。これでやっと、諦められないけど、諦めなきゃしようがないでしょう」

 生きていれば41歳になっていたはずの健くん。美谷島さんは今年、健くんがのこしてくれた「あるもの」を通して命の尊さについて伝えることにした。

 先月、東京・大田区の大森第四中学校で行われた講演で写し出された1枚の写真。

 美谷島さん「これは健ちゃんの運動靴です。私は健ちゃんに大きなサイズの運動靴を買ってあげたいと、今も思います。でも、健ちゃんはいません」

 写真は事故当時、健くんが履いていた運動靴。これまで人には見せてこなかったこの運動靴について、事故から32年がたつ今年、初めて語ることを決めた。

 美谷島さん「こっち側がもっと痛かっただろうな。切れちゃってるよね」

 事故の衝撃で、真ん中で裂けてしまっている右足の靴。長い年月を経て、なぜ今年初めて、この靴について伝えようとしたのか。

 美谷島さんは語る。

 「小さな靴じゃない靴を買い替えてあげることが当たり前だけど、当たり前のことができなくなったときに、そのことのつらさというのは、私はあの靴にあると思うので、それはもしかしたら伝えていったほうが良いのかなと。やっとこう開くというか、そんな感じですね。靴は私にとっては、健ちゃんそのものなんですよ」

 美谷島さんが靴を通して伝えたかったのは、命の重さや支え合う心。

 「一人ひとりに寄り添う社会、そして誰もが誰かの命を包んでいる社会を作っていきたいと思っています」

 中学生は、美谷島さんの言葉から何を感じたのか。

 松村道知くん(14)「妹とかが、そういうことになったら、そういう物(遺品)をみて、気持ちというのが整理できなかったりすると思う」

 志村史織さん(15)「一つしかない命の中でみんな生きているから、それを大切にしたいなと思いました」

 御巣鷹の記憶を次の世代に伝えるため尾根を目指す美谷島さん。健くんが発見された場所に子どもたちを案内した。そこには、美谷島さんが事故から5年後に植えたというもみの木がある。

 クリスマスを祝うことができるよう植えたもみの木は、30年近くたって見上げるほど大きくなった。

 子どもたちに囲まれた健くん。このとき、美谷島さんは思いがけない感覚を覚えたという。

 「健の墓標の前で、本当に笑った健の顔がわあーっと出てきて、それだけで胸がいっぱいになった。(事故から)32年の、私へのプレゼントかなと思いました」

 32年たつ今、美谷島さんが感じていること。

 「(子どもたちが)毎日毎日生きていて、命は自分だけのものじゃなくてということにつながったらいいなと。健ちゃんがあの靴を置いていったのは、そんな意味もあるのかなと。このごろ思いながらいるんですけどね」



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つながりが生む新しい精神文化 柳田邦男

2017.08.26(11:09) 328

日航ジャンボ機墜落事故32年=柳田邦男
毎日新聞2017年8月26日 東京朝刊
深呼吸

つながりが生む新しい精神文化
 8月12日。御巣鷹の尾根に今年も登ることができた。右股関節変形による腰痛と、右大腿(だいたい)部から足先までの痛みとしびれが続いていたので、どこまで登れるかと思いつつも、登山口からつえ1本を頼りに、ゆっくり、ゆっくりと歩を進めた。
 あの日、520人の命を奪った日航ジャンボ機墜落事故で、美しい盛りだった娘さんたち3人を一度に失った兵庫県西宮市の田淵親吾さんと妻輝子さんは88歳と83歳。81歳の私より年上なのに、毎年欠かさず慰霊登山をしている。その姿を思うと、足腰が不思議と和らいだ。
 足の不自由な高齢の祖父の手をとって支えながら、若者が一歩一歩、慎重に山を下りてくる。その後ろに中年の息子と娘、さらに孫たちが、ゆっくりとついてくる。
 事故当時、悲嘆に暮れた人たちの多くが年老い、子どもだった世代が親となり、さらに次の世代の幼い子たちを連れて登ってくる。幼い子たちにとっては、あの大惨事は歴史の中の出来事でしかないだろう。それでも、息を切らして山を登り、林立する墓標の前に立つことで、何かを心に刻むだろう。
 大切な日への回帰を促す三十三回忌の意味が、狭い登山道の情景から見えてくる。そこには「風化」などという気配は全くない。
 昇魂之碑の立つ尾根に、これまでの2倍の1時間半をかけてたどり着くと、そこにはこの20年ほどの間に起きたさまざまな事故や災害の遺族たちの姿があった。
 信楽高原鉄道事故、JR福知山線事故、中華航空機事故、オーストリアのケーブルカー火災、明石歩道橋事故、東武竹ノ塚踏切事故、シンドラー社エレベーター事故、御嶽山噴火災害、東日本大震災の津波災害、関越自動車道バス事故、軽井沢スキーバス事故……。 経済大国と言われるこの国に、恐怖と悲しみに満ちた事故や災害の被害者が何と多いことか。
 これらの事故や災害の遺族が、なぜ御巣鷹の尾根を目指し、集うのか。そのきっかけは、10年あまり前から、日航機事故で当時9歳の次男・健さんを亡くした美谷島邦子さんが、その後も次々に発生する事故や災害の遺族たちの慰霊祭や集いに参加して、交流の糸口をつくってきたことに始まる。
 美谷島さんら遺族で作る「8・12連絡会」は、考え方や立場の違いにこだわらず、緩やかな関係でつながり合い、情報の交換や共有、悲しさやつらさを語り合う場づくりなどを通して、遺族の孤立化を防ぐとともに、安全で安心できる社会づくりに向けて発言してきた。
 美谷島さんはさまざまな事故や災害の遺族に声をかける時も、「緩やかにつながる」姿勢を守ってきた。新たな事故や災害の現地を訪ね、遺族とともに現場を歩いて語り合う。そして「一度御巣鷹に来てみませんか」と声をかける。どこへでも足しげく出かけて交流する。その積み重ねが、御巣鷹の尾根での集いを生んだのだ。
 共同アピールを発信するようなことはしない。旧知の仲のような出会いの親睦感を胸に刻み、帰途に就くだけだ。それぞれ悲しみを胸にたたえていても、出会いの場では、みな柔らかな笑みを浮かべている。
 この10年ほどの間に、被害者に対する日本航空の姿勢は大きく変わった。役員から一般社員に至るまで、安全に対する意識や行動について、180度の転換といえる改革を進めた。象徴的なのは2006年、事故機の残骸を乗客の遺品や遺書とともに展示して社員の安全教育の場とする「安全啓発センター」を羽田空港内に開設したことだ。これまでの見学者数は社員がのべ約10万人、社外の企業、研究所、行政などが約10万人に達している。
 安全啓発センターの一角に、機体の小さな破片が多数、ガラスケースに並べて展示されている。事故で妹澄子さん(当時41歳)を亡くした愛知県の武田〓(たかし)さんが慰霊登山の度に斜面のあちこちに放置されていた破片を拾っては洗って保管していたものだ。
 日本航空は武田さんから破片の提供を受け、安全啓発センターに展示した。法的、技術的には無用な破片であっても、遺族の心情には切なるものがあるということを全ての役員、社員が理解するための象徴としたのだ。
 この姿勢は、遺族の日本航空に対する姿勢をがらりと変えた。センター開設の前日、展示を見るため上京した武田さんは、東京駅まで見送りに来た日本航空の役員に「一緒にビールを飲みましょう」と言ったのだ。
 その武田さんの姿をこの2年、山で見かけなくなった。今年の8月12日、身内の人から声をかけられた。7月1日に逝去されたと。
 8・12連絡会の遺族は、毎年1回安全啓発センターを訪れ、日本航空安全推進本部のスタッフらと思いを語り合うワークショップを開く。また、美谷島さんたちは昨年、「いのちを織る会」を結成。小中学校での「いのちの授業」や、希望者に安全啓発センターの見学や慰霊登山をしてもらい、感じたことを書いてもらうなどの活動をしている。参加した小学6年生はこんなことを書いた。
 「一つの命の後ろには、たくさん命があると感じた」
 10年前にはなかった動きが今、いろいろな形で生まれている。その動力源は、喪失体験者の「つながり合い」にあるのだろう。喪失の悲しみが生み出す新たな安全文化であり、新たな精神文化だと言えようか。
________________________________________
 ■人物略歴
やなぎだ・くにお
 作家。次回は9月23日に掲載します。





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感謝をこめて

2017.08.26(10:55) 327

「8・12連絡会」事務局長が振り返る32年
毎日新聞2017年8月10日 20時02分(最終更新 8月10日 21時37分)
講演する「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん=群馬県藤岡市の光徳寺で、2017年7月21日午前10時58分、杉直樹撮影
 520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故は12日で発生から32年を迎える。当時、遺体安置所だった群馬県藤岡市の光徳寺では7月に「三十三回忌法要」が営まれ、犠牲者家族でつくる「8・12連絡会」の事務局長、美谷島(みやじま)邦子さん(70)が講演した。愛息を失った悲しみ。事故原因の究明や被害者の連携や支援体制の構築に奔走してきた日々--。これまでの歩みを振り返り、「被害者一人一人に寄り添う社会を」と訴えた。【杉直樹】
ごめんね……
 「それは『さようなら』もない突然の別れでした」  --1985年8月12日夕方。美谷島さんは羽田空港にいた。次男の健さん(当時9歳)が大阪のいとこの家に遊びに行くために1人で飛行機に乗るのを見送りに来ていた。乗り物好きの健さんは、ジャンボ機を見てはしゃいでいた。別れ際にその手を握った。午後6時12分、大阪へ向けて離陸したその機体を見えなくなるまで見送った。
 自宅に戻ると、テレビに速報のテロップが流れた。「123便の機影が消えた」。慌てて手元の紙を見る。「123便ちびっこVIP」の文字。心が凍りついた。
 夫と事故現場に入ったのは3日後。当時は今のように整備された登山道はなかった。「健はきっと生きている」。そう信じ、泥まみれになって登った。歩き始めて4時間後、目の前に飛び込んできたのは、辺り一面に散乱した機体の破片だった。
 健さんのお気に入りのジュースをかけると、燃えて熱を帯びた破片の上で、ジューッと音を立てて蒸発した。「ごめんね、ごめんね……」。山に向かってつぶやくのが精いっぱいだった。
 事故から5日後の17日、遺体安置所となった藤岡市の体育館。遺体確認のために見せられたのは、ほんのわずかな胴体の一部と右手だけだった。手のイボ。爪の形。「健です」。夫がその小さな右手を握り、「もう一人ではないよ」とつぶやいた。結局、遺灰はタバコの灰くらいにしかならなかった。「人の命をこんなにも粗末にしていいのだろうか」。今まで感じたことのない思いがこみ上げてきた。
被害者支援さきがけに
美谷島さん(右)は昨年から地元の東京都大田区の子どもたちを対象に慰霊登山ツアーを始めた=上野村で2016年7月31日、鈴木敦子撮影
 その年の12月、犠牲者の家族らは「8・12連絡会」を結成する。以降、この会は、それまで「蚊帳の外」に置かれがちだった被害者の支援体制の構築に大きく寄与することになる。
 国の最終報告書は87年、事故原因は修理ミスを遠因とする圧力隔壁の破壊と結論付けた。「しかし、疑問が残りました」。2010年、「8・12連絡会」は疑問点をまとめ国に提出。翌年、報告書の解説書が公表された。「画期的なことでした」。その後、他の事故でも事故調査報告書の開示が進み、現在はインターネットでも閲覧できるようになった。
 連絡会は被害者支援の制度化も求めてきた。12年には国土交通省が事故時の被害者の心身ケアなどに当たる「公共交通事故被害者支援室」を設置し、16年1月の長野県軽井沢町のスキーツアーバス事故で、国として初めて現地に相談窓口を設け、遺族や負傷者への説明会を開いた。
 原動力は何だったのか。美谷島さんは言う。「一人一人の悲しみは点だけど、支え合うことでつながって線になる。32年間で被害者の連携が大きく進み、その連携で、支援体制の構築が始まった」。連携を支えた連絡会の会報「おすたか」は今年7月発行で106号を数える。
失われた命を生かす
 「事故の発信を、三十三回忌まで続けられるなんて、当初は思いもしなかった」

事故翌日の墜落現場。一夜明けてもまだ白煙が上がっていた
 事故現場の上野村では毎年、命日の前日には灯籠(とうろう)流し、命日に慰霊式典が行われ、墜落現場の御巣鷹の尾根には遺族が慰霊登山に訪れる。乗客45人が死傷した12年の関越道バス事故や東日本大震災の遺族の姿もある。「失われた命を生かしたいという共通の思いがあるからです」と美谷島さんは口調に力を込めた。
 昨年から地元の東京都大田区の小中学校の子どもたちを連れて慰霊登山ツアーを始めた。「一人でもこの世に覚えている人がいる限り、その人は死なない。あの日から、私の夢は健ちゃんに会うことです。亡き人を思う悲しみや苦しみが、かき消せない炎のようにあるから、亡き人とともに生きていけると思っています」
 講演の最後をこう締めくくった。「被害者一人一人に寄り添う社会。そして誰もが誰かの命を包む社会を作っていきたい。群馬の皆さまには、後継者のために、忘れてはならないことを忘れないために、これからもよろしくお願いいたします」





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魂の風

2017.08.26(10:01) 326

魂の風

山で見つけた小さな種は
大空をかけ 魂の風となって
小さな花を咲かせる

若き人に魂の風が吹き
新たないのちを包むために
小さな花を咲かせる

もう地上にはない種は
魂の風に吹かれて
小さな花を咲かせる
大空で安全の祈りとなって

魂の風は ほんの小さな種
もう地上にはない種





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